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人が認識できる世界はそれほど広くありません。

よく見たものしか信用しないという人がいますが、たしかに目の前にあるものが現実ですので、見えないものは現実ではないということになります。

その考えでは、自分が視認できる大きさくらいなので、地平線をよく見ている人は、世界は地平線まで、小さな部屋にいる人はその部屋が世界だということです。

つまり、部屋の中にいるような隔てが存在する場合、実際に外の空気を感じているわけではないので、たとえガラス窓で視認性がよくても外の様子はわからないため、さっきまで平穏だった外の世界も、たった数分でとんでもないことになっているかもしれません。

今はテレビやインターネットがあるので、部屋の中でも外の様子を知ることができますが、その映像がリアルに感じることができるようになってきました。

これは湾岸戦争あたりからよくいわれるようになったことですが、モニターの暗い中に明滅する光の筋を観て、これは実戦の砲弾であるとリアルに恐ろしいと感じるようになったのは、自分の世界を保てなくなるくらいまで、私たちの感覚は見たものを信用することを第一とするようになってしまったのです。

もちろん、現実認識が大事であることは間違いのないことなのですが、それが脚色されたものであっても見たものは信用するしかないというのはいかがなものかと。

表現の差はあれ、モハメッドの格言では、

「人間は眠りの状態にある。目覚めぬうちに彼は死ななければならないのか。」

という言葉で言い表していますが、この言葉の真意はこうです。

人が生きていくうえで、何かの行動をつねに意識して行っているのだろうか、また、その意識は本人が望んだものなのだろうか、といったことに集約できると思います。

どんなことをするにしても、世界と向きあうには今の感覚で認識しているとはいえないということ。

外からの刺激に対してのみ正解を求めることは、自らの声を聞かずにただ従っているだけであり、本当の正解には辿り着けないということなんです。

それでもいいという人もいますから強制はできません。

たしかに、世界を知ることは非常に恐ろしいことにも感じますし、一度知ってしまうと、もう戻れなくなりますから、本能的に怖くなってしまうわけです。

しかし、本当の自分と世界を知ろうとした場合、それでは不可能であると知っておいてください。

世界の大きさは、その人の意識によっていくらでも変化するものですから。


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近頃、ある種の必然性を感じるようになったのですが、それが意識の統合というものでした。

このサイトを以前のようなカテゴリ型として、経済や恋愛に分類するようなやり方はわかりやすいとは思うのですが、実は使える技術体系としては一過性でしかない事も多く、一時的に利用してあとは使えないものも多いのです。

これは、私が鑑定を続けていて感じたことで、統計をとったわけではありませんが、ノウハウ型で利用し続けられるものは、全体の20%~30%程度のような気がします。

つまり、あとはその都度、兆しを読みつつ必要に応じてまったく新しい筋道を用意するために、2回と利用できるようなものがないということなのです。

これは非常に非生産的と思われるかもしれませんが、お客様の依頼に沿うような筋道を考えればわかることで、一人一人の生活環境や魂の波動、そして運気も様々であるために、誰ひとりとして同じ筋道にはならないのです。

そのような事情もありますので、より普遍的になるものを体系付けられればと思い、このサイトの更新をしていますが、なかなか分類にまで至らないため、事象に対しての対応の理みたいなものになってしまっているのが現状です。

現代的な流れを考慮しつつとなると、それこそ単なるノウハウ集ではすぐに陳腐化してしまうため、後に普遍性をもたせた形での応用ともなると、おそらくは思想の古典を引用することにもなると思います。

ただ、古典を利用した進め方でいくと、必ず時代とのギャップが出てくるのも事実で、旧世代の習わしなど、現代で理解出来ないことも多いため、どこまで汎用性をもたせられるかが焦点となります。

これが意識の統合と考えているものであり、一見トンデモ理論と映るのは承知で展開していくしかありませんが、この先の断片化した意識を共有できないと、少し困った事態が待ち受けている気がしてならないのです。

もちろん、ここでの展開は一部の人にしか当てはまらないことも承知していますが、そういった潮流を他の方もしてくだされば、その流れを継続させることができるようになります。

それぞれの言葉でそれぞれの意識の統合に向けて動くことができれば、と考えてのことです。

ここまでは意識の統合についてのお話でしたが、もう一つ大切な意識もあります。

それが愛を語ることです。

愛は非常に抽象的であるため、あまり難しく考える必要がないといえば語弊がありますが、これは誰もが感じることができるものであり、いつの時代にも求められているものです。

愛のある言葉が、どれだけ良い波動を呼び起こすか、体感してもらえれば一番わかりやすいので、まずはここからはじめてみるのが、大いなるものにつながる一歩になるのではと思います。


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相手の過去をやたらと気にする人がいます。

これまでどのような経緯があって、なにを考えどのように行動してきたのか、口では過去など気にしていないと言っている人ほど、実は気にしていたりします。

相手が過去に起こした出来事に対して、一度よく似た経験で痛手を追っていると、一度起こせば必ず二度三度やってしまうから、気をつけなければという頭があるため、容認しながら次に進むことに躊躇してしまうものです。

たしかに同じような痛手を受けるのはだれでも嫌ですし、また同じことを繰り返すかもしれません。

人は、ある状態を自分から克服しようとしない限り、いつまでも同じことをしてしまうという習性を、その人自身が痛感しているからでもあります。

では、自分と同じような習性があるからと相手を警戒しているその人は、自分自身が変わったと感じた経験はないのでしょうか。

自分はこれだけ変われた、自分は以前のようにはミスはしない。

そう思えなければできないこともあるはずで、そのことに対して周囲の人には以前の自分で接しているでしょうか。

人はいつまでも同じではいられません。

それは、自分がそう感じるのと同じように、相手にも同様の変化があります。

そして、自分が変化したと体感したその人と、相手は同じような境遇にあるということ。

つまり、自分が変化したなら相手も同じ部分や、似たような経験をして痛手を負っていますから、過去と同じような行動にはなりにくいということです。

もちろん、相手も人間ですから、混乱している時などは習性で過去の行動をとったりもしますが、いつもそうではないのは、自分と照らし合わせてみるとわかります。

重要なのは過去ではなく、現在の自分であり現在の相手です。


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あなたの一番落ち着ける場所はどこにあるでしょうか。

寝室、それとも書斎でしょうか、トイレの中という人もいますね。

そのくつろげる空間から、あなたの生活が始まるとも言えますが、心からほっと一息つくことができるかできないかで、生活の充実度に雲泥の差がでてきます。

心身が疲弊している人は、どのような大きな部屋であったとしても、部屋の隅にいることが自分の場所になっていたりします。

この部屋の隅で落ち着くこともあるようですが、とりあえず落ち着かせているといった向きが強いようで、心を充実させるまでには至らないように感じます。

家が安息の場所として感じられないということは、家の中にいる場所が見つからないのと同じです。

これは、ただ家に帰って寝るだけのようなものであり、それは家ではなく宿です。

宿は、基本的に戻ってくる場所ではなく、一時的な通過点です。

安住の地というのは記憶の場でもあるので、戻れない以上、宿には自分の心を置いていくことができません。

家にいて居場所がないと感じるならば、まずは自分が大切なものを、安心するかもしれない場所に持って行き、その場所で過ごすことです。

自分の場所だと感じられればよし、そうでないならば、他の場所で試してみてください。

本当に居心地がよくなれば、これまでに感じられなかった微細な心の働きもわかるようになります。

これが場に込められたあなたの思いであり、あなたが生きている証でもあります。


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ある時から見えるようになってきたものに、概念の境界線ともいうべきものがあります。

たとえば、理想と現実の狭間というものがありますが、現実としての物質界の存在である私たちと、理想の世界に存在する精神体としての私たちがあります。

なぜ現実と理想なのかというと、現実はそのままこの世界のことですから説明はいらないかと思いますが、理想はこの世界が出来上がるまでの見えない世界だからです。

この見えない世界があり、理想とする世界が存在したらうれしい、そう念じることにより、世界は現象として私たちの肉眼でとらえることができるようになります。

しかし、思ったことがすべて現実になるかというと、現実になるための要素がいくつも存在するために、現実味を帯びることはなかなか難しいといえます。

わかりやすいところでは、思考する、行動するといった一連の流れがなければ、現象として変化することはありません。

もっといえば、目に見えない思考の状態で変化の兆しは現れ、その形にたいしてイメージが進むことにより、現実化していない状態においても現象化はしているといえます。

どのように現象化するかについては、頭の中のイメージの世界ですでにできあがっているので、行動はその具体的な方法であって、現象は結果でしかないということになりますから、目に見えないものがいかに大切かということがおわかりかと思います。

イメージするだけでは叶わないことはお話しましたが、なぜかの理由の一番大きなものとしては、理想、つまり精神体は個人の世界であるが、私たちの肉体のある物質世界はたった一人の世界では構成されていないということです。

理想の世界ではうまく世界がいったとしても、現実世界では様々な人の結果が現象化するために、世界が衝突し融合しを繰り返すため、思ったようにはいかなくなるのです。

叶えたいことは、生きていればいくらでもあります。

その叶えたいけど叶えられない、もっとももどかしいものとして、この世の中、自分に嘘をつかずに生きられたら、どれほどすばらしいだろう、と思います。

自分の心に正直に生きることは、他を押しのけて自分を貫き通すという意味ではありません。

それでは精神世界の自分となんら変わらないではないですか。

周囲との摩擦をおこさずにとなると、上記しましたように、これほど困難なことはありませんが、生涯に一度だけでいいので叶えられるとしたら、あなたなら何を望みますか?

ちなみに私の答えは、一日だけでいいので、世界で争うことがない日を望みます。


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今起きている事は必然、と思えば納得ができることが多いものですが、その事象に照らし合わせたように解釈できるだけの前後の流れがわかっていなければ、必然も必然たることの証にはなりません。

それまでの流れを整理してみれば、事の成り行きもわかるものなのですが、起こり来る事象は突拍子もないものに見えてしまうため、すべてに連続性がないように思えてしまうのです。

そうなると、次から次へと難事が降りかかったように思えてしまうのも仕方ないことでしょう。

そこで、どのような対応をしているかによって、その人のその後が決まってしまう、といったらどう思いますか?

信ぴょう性のない話と一笑に付されるかもしれませんが、ある行動によってその後が決まってしまうケースを、これまでさんざん見てきました。

ここは少し理解の幅を広げていただけるだけで、あなたにもそのケースを回避するだけの状況が生まれることになりますから、悪影響を及ぼす話にはならないと思います。

まず、現時点で様々なトラブルが起こっている場合、どこが発生源かを突き止めることが先決です。

それがわかれば、対処もできるのですが、いざ渦中にある場合ですと、その発生源が見えなくなるものなのです。

そこで、発生源を調べるためにはどうするか。

まず、周囲の雑音をシャットアウトしてください。

だいたいにおいて、あなたの思考を混乱させる原因となっているのは、周囲の私情の絡んだ雑言に惑わされていることがほとんどです。

私情が絡んでいるのは、情念ともいうように、ある種のエネルギーが発せられています。

あなたが苦しいとき、その人も苦しいはずですから、そのエネルギーは口から発せられるときというのは、だいたいがマイナスエネルギーの形によって出てくることがほとんどです。

そのマイナスエネルギーを受けているとどうなるか。

経験があるかと思いますが、互いにやりきれなくなって口論に発展しますので、感情のぶつけ合いをしているうちに、周囲はどす黒い空気に包まれてしまいます。

このような修羅場では、今ある修羅場の問題に転嫁されてしまい、本来の問題発見には遠く及ばなくなり、ますます泥沼化していくだけです。

こうならないためにも、周囲の雑音をシャットアウトし、あなたも口を開いてはいけません。

まずは周囲からマイナスエネルギーを発生させないことからはじめましょう。

この沈黙はその人のこれまでの魂の傾向により、時間には個人差があります。

沈黙を続けることである変化が起こりますが、その変化がマイナスエネルギーからの解放の合図になります。

マイナスエネルギーがなくなることで、冷静に物事に対処することができるようになりますので、トラブルの発生源を早急にみつけて対処してください。


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この世界には様々なものがあり、様々な価値観が存在していますが、困窮したときにこそ、その価値の偉大さがわかるでしょう。

なぜそれが今に存在しているのかというと、普段は生命の危機があるわけではなく、朝になれば凍えず生きることができたと実感することもないために、必要としていないからです。

いざというとき、そのものはあなた自身を守ってくれるものか、いざというときがこない限り分からないのです。

ひとつ、その価値を知ることができる方法としては、世界に対して目を向けることです。

今はこうして暮らせていますが、幸せであると感じられることがどれだけ奇跡的な状態の上に成り立っているのか、海外にでると見えてくるものがあります。

ただし、旅行はツアーのようなものでは意味がなく、その日暮らしで宿をとるようなバックパッカースタイルです。

ヨーロッパの上流階級の青年は、上記のバックパッカースタイルで、成人を迎える前後に一人旅にでます。

この旅は儀式のようなものであり、ひとつには生きて戻ってこられるかを試されているともいえます。

あらゆるものから解放される代わりに、あらゆるものから自分で身を守らなければなりません。

彼ら青年は高等教育は受け、社会で通用する礼儀なども学んでいるため、いつ社会にでてもおかしくないくらい、しっかりと学んでいるでしょう。

ですが、その知識はあくまで当人からすれば机上の空論でしかなく、実際に体感できるような環境は、社会人として仕事を始めてしまうと重要なポストにつきますから、二度と巡ってこないのです。

生きるとはなんなのか、知識だけではなく実感すること。

その平穏はいつまで続くのか、この状態でいつまで過ごせるのかと感じることがあるとすれば、それは世界に対して目を向けることであり、実感しなければ、ものの本質は見えてはこないものです。


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時間は常に流れていくもの。

時間は誰人にも平等に分け与えられていますが、人により時間が少ない、時間が長いなど、感じ方が違います。

また年齢によっても時間差というものがあり、だいたい、二十歳くらいまでは時間が非常に長く感じるものです。

二十歳を過ぎると体感で徐々に時間が短くなりますので、それまで退屈なほど持て余していた時間の使い方を悔やむようになります。

なぜ時間が短く感じるようになるのか、それぞれの人生観にも影響しているように思いますが、一番の理由としては生命力の減少からくる活動限界の焦燥感があげられるのではないでしょうか。

肉体をよほど頑強にしておけば、生命力は燃えるように活動していますので、衰えを感じることなく過ごせますが、それでも一日はあっという間に過ぎてしまいます。

ただ、強健なほどの健康状態であった場合は、日々が充実していますので、一日の充足感はしっかりと味わえますから、時間が短くても焦りはしません。

しかし、社会人になると、プライベートに削く時間が大幅に減り、鍛えている時間がありませんから、バイタリティあふれる日々を過ごしたくても、使える時間がわずかなので、自分の時間すら満足に使えないため、よけいに時間が短く感じるようになるのではないでしょうか。

残念ながら、そういった人ほど、大きく期間があればなになにできるが、普段は仕事に追われて余裕がありません。

一日の中でも探せばそこそこ使える時間があるのですが、小さな時間を使いこなす頭の領域が確保できなくなってしまっているのです。

こういう傾向の性格の人は非常に真面目な方が多く、まるで自分の時間をもつことが悪いことのように感じているのではと思えるくらい、目の前のことに全力で取り組んでいらっしゃいます。

たとえ仕事が趣味のような人でも、自分の時間がもてないのは同じなので、充実しないまま時間が過ぎていきますから一日は非常に短いでしょう。

では、そのような人にも自分の時間がつくれるのか、といったときに、一つの答えとしてあげられるのは、孤独な時間をもちなさいということです。

まったくひとりになる時間、だれにも関与されない時間が30分でも1時間でもかまいませんので確保してみてください。

どうしても確保できないようなら、夜中の3時4時あたりに起きてみるといいでしょう。

まず間違いなく孤独な時間を確保できます。

そこで何をするか。

何もしません。

ただゆっくりと一人の時間を過ごすだけでいいのです。

最初は静寂にいろいろな感情がわいてきますが、自分を取り戻せるようになると感じ方も変わります。

時間がないと焦ってしまっている人に、一度でいいので試してみてくださいとお話していますが、試してくださった方には好評でした。


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「人生でぶつかる問題に、そもそも正解なんてない。

とりあえずの答えがあるだけです。」

とは養老孟司氏の言葉ですが、確かに言葉通りだと思います。

その問題の答えを決めるのは自分であって、万人に共通の正解というものはないからです。

その例には、世の中、自分が認められることには誰よりも主張するのに、間違ったことには触れず時が過ぎるのを待つような事例が多いことでもわかるかと思います。

間違いだと気がついたとしても、過失であると認めることで人生の大きな汚点を残し、二度と表舞台には立てないと信じている人には、見て見ぬふりが最良の策となってしまうのでしょうけど、果たしてその間違いに対しての反応はその人にとっての答えなのでしょうか。

海外では、正しい答えであるか否かを語る前に社会貢献活動をします。

財力があるならば、社会のためにできることを貢献し、財力でなくてもボランティア活動に参加したりすることで、社会のためになる動きをします。

なぜ海外の人は、社会の事実にたいして語る前に行動するのか、日本人にはわかりにくいことかもしれませんが、それはなぜかというと、社会全体に対してすべてを語ろうとすることは、社会悪に対しても容認するしかなくなるからです。

このことは事例をださずとも、報道をみているだけでもわかることです。

そのような社会の罪を認めた上で、なおできることはないかと考えてからでは、正直なところ、どのような聖人であっても行動に苦痛を伴うでしょう。

では、なぜ動くのかを知れば、彼らの行動の意味も少しは分かるかと思います。

海外の人が貢献の働きをするのは、ただ一点、子供達のためです。

自分の子供に幸せになってもらいたい、親なら誰でも抱く感情です。

自分たちの子孫が生きていくために、今の社会でいいのか、そんなことは考える前に答えはわかりきっていることですから、では、できることをしよう。

大人を規範としているのが子供で、彼らは一挙手一投足、大人の動きをしっかりと観ています。

今の子供達に幸せになってもらいたいと感じているならば、大人が変わらないといけない。

日本でも活動するからにはその意義についても、海外のいい文化の根底を受け継げばいいと思うのですが、いかがでしょうか。


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ニュースをみていると、ほんの些細な争いで、殺人にまで至るケースが近ごろは非常に多くなってきました。

最初は言葉のすれ違いていどのものでも、当人の中でくすぶり続けているものが、ある時爆発してしまい、とても大切だと思っている関係すら破壊させてしまいます。

なぜそこまでの衝動が起こり、悲惨な最期になってしまうのか当人ですら分からないだけに、よけい無念さが伝わってきます。

いったいなにがこういった事件にしてしまうのか、様々な統計もでているとは思いますが、住んでいる地域性の問題や都心部周辺での生活環境などで、よく都心での生活には静かな興奮状態が起こっているといわれます。

その興奮には確かに目にはみえないけれども、様々なエネルギーがそこにとどまっているため、それに触れ続けていることが原因かもしれません。

そこで感じるエネルギーの多くは、向上心からくるものにアンテナがひっかかりやすいようです。

人が多く住む都心部やオフィス街などは、そのようなエネルギーが24時間発散し続けられていますから、その場にいるだけで休みなく受けることになります。

幼少期より学歴重視の生活環境で育っていれば、その空気には慣れ親しんだものがあるため、静かな興奮を自然と受け入れるようになります。

学歴でのよくなろうの基準には、人よりもよくなろうが前提にあるため、知らず知らずのうちに、競争心だけで能動的に動いているため、いつしか当人ですら心のコントロールができなくなってしまいます。

なんにでもけちをつけないと気が済まない人は、結局最後には自分自身にもけちをつけて結論づけますが、その結論は本当に幸せになるのでしょうか。


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